LA GALERIE DES NAKAMURA

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Yu Hara "rain barrel"

原 游 "レイン・バレル"

2010年8月20日(金)ー9月18日(土)12:00-18:00 / 日・月曜日休み
トークイベント「インタラクションする境界」:2010年9月4日(土) 16:00-18:00
宇野良子氏(認知言語学者)× 河村美雪氏(アーティスト)× 原游

原游の展覧会「rain barrel」を開催いたします。
ラ・ガルリ・デ・ナカムラでは3年ぶり3度目の個展となる今展では、
最新作の油彩を中心に約40点を、ギャラリーの1階フロアと、新しく設けた中2階の空間(メザニン)に展示いたします。

今回は、ギャラリーを雨水を貯める雨樽と捉え、各作品を空から落下してきた雨水の粒にたとえ、
展示を雨水が溜まっている状態に設定しています。
合わせてテーマの理論を示す絵本『目は虚ろ』も制作し、さらに複雑な要素(=雨水の粒)の組み合わせで展示を多義的に構成していきます。
また、この展示は作家自身の心象を雨樽になぞらえた表現行為でもあります。

原游の作品は、ものごとの原理に分析的な視点を重ねたテーマをユニークな感覚で表現しているのが特徴です。
ペインティングやミクストメディアによるインスタレーションなど、多彩な手法を用い、
親和性を感じるモチーフを通して描かれる大胆な筆致と緻密で創造的なレイヤード、卓越したバランス感覚で彩られた作品は、
そこに否定的な息苦しさはなく、鑑賞者を不思議な夢中世界へと一気に誘い込む明るい魅力に溢れます。

原游のトレードマーク的なペインティング「飛ぶ教室」シリーズは、日常を取り巻くモチーフで構築されています。
キャンバス上に規則的に置換されたカラフルなエレメントの集合体は、流れ、回転し、動きが可視化されながら3次元の景色へと変貌します。
作品が包含する「部分と全体」のトポロジーは遠近感覚の心地よい錯覚にも及びます。
もうひとつの代表作であるミクストペインティングの「顔」シリーズは、キャンバスを顔に見立て、
綿布を髪の毛に変換することで絵画の秩序を微笑ましくユーモラスに操った素材の手触り感にあふれた作品です。
これらの思考実験的シリーズの展開は、自分の視点を上げてメタに俯瞰し、
ものごとの文脈的な関係を見渡すという平面性における体系的探求の強度を着実に高めました。

原游の大局を見失わない視点、素朴でシャープなユーモア、エネルギーにあふれた表現力は、
今日の閉塞感から私達を自由に解放し、明日への思考力へ繋げる大らかな主体性となることでしょう。



アーティスト ステイトメント / 原 游


アメリカ北西部では、レイン・バレル(雨樽)を外に出しておいて雨水をため、
庭に散布したり、髪を洗ったりするのに使ったりすると本で読んだ。
空から様々なものを映し出しながら落下してきた水の粒がレイン・バレルの中にたまっていく。
「私」とレイン・バレルは似ているように思う。

俯瞰して見ると、世界は様々な意味を持つレイヤーが重なったり離れたりを繰り返す状態にある。
水素と酸素が結びついて水になったり、様々なものが重なり合って地層が作られる。
近づいてみると「私」もまた、過去に見たり聞いたりしたことと、現在「私」を取り巻く風景が重なり合い、何かを思い、忘れる。
私たちはたえず何かを見て何かを思い、聞いて何かを思い出しという繰り返しによって「私」というものがあるように感じている。

絵の中には、数々のイメージが散らばっていて、一瞬、集まって、子供の形を描くが、散逸する。
そして、その形作られた子供を、より遠くから見てみると、それは小さな固定したかのようにみえる子供のイメージとなり、
もっと大きな別の形のものの1パーツになっているかもしれない。

世界の中に私がいると同時に、「私」の中に世界がいると感じられる。
過去に見たり聞いたりしたものと、現在「私」を取り巻く風景が
何重にも映し出され、また消え、映し出されと繰り返される心象が「私」であるならば、
「私」の中には色々なものを映し出す泉があると考えてみる。その泉は過去も現在も映し出すことができる。
「私」の中に泉があるのであれば、外のものの中にも泉はある。
「私」と何かが向き合ったときに、つまり泉と泉が向き合い、互いに写し合うことになり、揺らぎをともないながら無限に反射を続けることになる。
そのような状態が私にとっての常であるとするならば、そのなかで何かを求めようとすることは、屈折し、反射を繰り返す像の後を追って、
一緒に螺旋を描きながらくるくると回り続けるようなものである。